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8月のせい (3)

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一転


日本の敗戦がかの地に伝えられた時、おばあさん(当時は若ママ)は子どもをつれて外出中だった。

「何の用だったか、この子を連れて出ていて、周りが騒いでいるものだから終戦を知って、えらいこっちゃと家に帰ろうとしたら、家の少し手前で知り合いに引き止められてな。その人がものすごい形相で『帰るな』と言うわけよ」

旦那さんは暴徒化した地域住民に命を奪われた、次はあんただと言われたという。

「そこから記憶がない」

「オレは覚えていることがある」とおじさんが言った。「手が痛かった。骨が砕けるかと思うくらい痛かった」

手の骨が折れそうな勢いで子どもの手を握り街角に立ちすくむ親子の姿が脳裏に浮かび、私は恐る恐る聞いてみた。

「自分でお財布を持ったことのないマダムが、着の身着のまま日本に帰国するって、苦労の連続だったでしょう?」

とてもつない恐怖を味わったゆえに記憶が抜け落ちたはず。そんな人にこんなことを聞いたらまずかったか…。

「苦労…したのかねぇ。したのかもしれないけど、覚えてないんだ。泳いだわけないから船に乗ったんだろうけど、なんにも覚えてないんだよ。覚えてないから、思い出して苦しいこともないんだから、そんな顔しなさんな」

おばあさんは私に一瞥くれた後、手を合わせたのだった。

「旦那さんといる時に幸せすぎて、あの時幸せを一生分もらったから、後の人生は苦労があっても仕方ないと思った。ところが、年取ってからまた幸せな暮らしができて、ありがたやありがたや」

幸せ?

「こうしてみんなでご飯を食べられる。自分はどこか壊れてしまって笑うことがないし人を笑わせることもないけど、おしゃべりな嫁さんが1日じゅう楽しくしてくれる。明日の心配をする必要もない。今日も1日幸せだったと思いながら床につくんだよ」

そう言って、涙を流した。

記憶がない。
どれだけの恐怖に見舞われればそんなことになるのだろう。
封印しなくては生きていけない体験がどれほど凄まじかったのか。

このおばあさんは大笑いすることができない。愉快な気分になることができない。
持っていたはずのみずみずしい感情も記憶と一緒になくしてしまったのだった。

それでも、涙は流れる。
涙を流させているのはどんな感情なのか、その時の私には理解することができなかった。

...つづく

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