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8月のせい (4)

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垣根


おばあさんの記憶は、数カ月分欠落しているらしかった。
おばあさんだけでなく、親子ともども記憶が欠けていた。

「覚えているのは、部屋で洗濯物をたたんでいたこと。もう日本で普通に暮らしていた」

その頃の記憶は、親子で辻褄が合わない。記憶は脳に負担が少ないように捏造されることもあるというから、どちらか、あるいは二人とも真実を記憶として留めていないのかもしれないと私は思った。

推測するに、この親子は所縁のある土地を点々とし、裏切られることを繰り返した末に、うちの親が住む町にやって来た。

昔語りをするおばあさんを見ていたうちの親は、不審そうな表情でまったく会話に加わらなかった。理由を聞いてみると、

「いやいや、おかしいでしょ。私が知ってるあのばーさんは、幸せの欠片も感じさせない人だったんだから。どんだけの苦労をしたらあんな恐ろしい形相になるのかって思ってたよ。引揚者は一様に貧しかったけど、あの人は抜きん出ていた」

うちの親の知るおばあさんは、眉間に深いシワが刻まれ、近寄りがたいオーラを放つ孤立した人だったという。近所の子供たちからは「鬼ばばあ」と呼ばれ、恐れられていた。大人たちには「あの家に近寄るな」とまで言われていたという。

なのに、なんで近づいたのだよ、うちの親。

「鬼ばばあってどんなものかな~って見たくて。頭からツノが生えてるのかな~って」

おい。

「ニコリともしないし顔はすんごく怖いんだけど、おやつくれたから。毎日のように行ってた」

おい、私に「ひとの家に勝手に行くな」「ひとんちで飲み食いするな」「ひとから物をもらうな」と言って育てた人よ? 抜きん出て貧しい人に食べ物をもらうってどういうことだ。

うちの親とおばあさんの話を突き合わせるとこういうことらしい。

おばあさんが語れない、そして語りたくない苦労の日々の中で、すっかり人間不信になり、垣根を越えて家に人が来ることがほとんどない生活を送っていた。日常的に金銭より物(特にお惣菜)が行ったり来たりする田舎町で人が来ないということは、物も来ない。人と交わらず、ひたすら黙々と働いて糊口を凌ぐだけの日々を送っていた。

ある日、地面と垣根の隙間から、顔だけ出して様子を伺っている子どもがいた。それが、うちの親。

「子犬みたいで可愛かったんだよ。最初の日は、すぐいなくなったけど、次の日もまた次の日も同じように現れて、中を伺ってたね」

「バレてたのか!」

「犬だったら牛乳でもやりたいところだけど、うちにはそんなものないし。芋ならあったから、あの子は今日もきっと来るだろうなと蒸して待ってたんだ。『芋喰うかい?』と聞いたら、勢い良く入ってきてね。それから、芋がある日は来る時間を見計らって、蒸すようにしてたんだ」

「芋を蒸す匂いがしてる時だけ入っていったなぁ。匂いがしない日は、目の前に行っても素通りしたもんだ~」

「それは悪いことしたね」

おばあさんは心から申し訳なさそうに、ただでさえ小さな体をさらに小さくしてうなだれた。

家に帰ればおやつがある生活してて、なぜ貧しいと分かっている縁故でもない人のところに通ったよ?

「自分専用の芋を出してくれるから」

おい。

うちの親が不躾ですみません…と謝った。

「自分のことを腹に一物がある顔で見る人が多かったし、ましてやうちを訪ねてくる人なんて他にいなかったからなぁ。遊びに来る子どもがいるのは楽しかったんだよ」

おそらく、その芋はおばあさんの主食だったはずだ。米などそうそう買えず、麦はおろか芋さえもいつもあるとは限らなかっただろう。それをわざわざ近所のガンキンチョの3時のおやつとして供していた。心を閉ざしていても、子どもに食べさせたい気持ちは溢れ出て、分け与えたということだと思う。無表情の下で母性は沸き立っていた。

子どもが毎日のようにおやつをもらいに行ってることを知った私の祖母は、折につけ「余ったから」という口実で手土産を持っていったらしい。鶏を飼っていたこともあり、たいていは卵。野菜のこともあったという。

「ああ、そうだね。あんたんとこのおっかさんが来てくれるようになったんだ」

心の垣根はこの頃から少しずつ緩んでいったらしい。

しかし、腹の底から笑うことはついぞなかった。


*   *


ツノが生えているかを確認しに行った縁は長きにわたり、私の代にもつながった。

おばあさんには孫はなく、孫ではないけど孫のような私がたまに書く手紙を楽しみにしていてくれていたそうだ。「おばあさん、いつまでも元気で長生きしてください」というフレーズが一番喜ぶから必ず入れるようにと言われていて、忠実に守っていた。自分の祖母でないがゆえに手紙の熱量が足りなかったのは、今にして思うと実に申し訳ない。それでも、そのつど手紙を近所の人に見せていたというから、心がプラスに動く材料にはなっていたのだろうと思う。

生きていてと言われることがどれだけ心の糧になるか、今なら少しは理解できる気がする。私は、垣根から遠慮がちに覗いている子どものポジションだったのかもしれない。その視線さえ嬉しいと思える人だったと、今なら分かる。


時は流れ流れて。
昔語りで頬を染めたおばあさんも、あの日一緒に食卓を囲んだ人々ももういない。
私だけ生きているのだなと、気づいてしまった。

こんなことを思うのも、思い出して文章に起こしてネットの海に流すのも、きっと8月のせい。

この記事へのコメントが 2 件あります

  • 加藤

    おばあさまのことも戦争のことさえも知らない私が何を言っても上辺を滑っていくだけの言葉でしょうけれど「書く」と「書かない」の違いは大きいと思います。
    体験を語る方々の多くが、知らないということは無かったことと同じだから、と言いますし。
    15日の正午に職場で黙祷の放送があったのですが、1分間もあるので抽象的なことでは終われずに、では具体的に何をどう祈る?というところですっかり躓いてしまったダメダメな私です。
    2018年08月16日
  • もも

    ◆加藤さん
    語らず何もなかったことにしてしまってはいけないと、今年も体験を語る方々が異口同音に訴えていらしたので、私の中にも何かが芽生えたようです。あの人たちの体験を今語ることができるのは、私だけ。薄っぺらい語りだとしても、語らないよりマシかと思ったのです。
    私も以前は黙祷でどう祈るべきかピンと来なかったですよ。
    でも、気付けば、私の周りには戦争で人生が狂ってしまった人も九死に一生を得て帰国した人もいて、その人たちがみな鬼籍に入られたので、祈る理由ができました。
    だがしかし。15日の正午に何もしていないダメダメな私です…。
    2018年08月17日

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